「母との出会い人生の分岐点」
岐阜プラスチック工業 代表取締役会長 大松 利幸 氏
父を手繰り寄せた運命の糸
当社は今年が創業68年に当たり、あと2年すれば節目の70周年を迎えることになる。
現在の業容は、前3月期のグループ連結決算で売上高979億円、経常利益96億円。社員数は2205人である。
前期は売上高1千億円超えを目標に頑張ってきたが、コロナ禍の影響もあり、残念ながら未達となった。今期は新社長のもとで、目標達成を成し遂げることができると思う。
当社はプラスチックの加工をなりわいとしている。販売単価の低い製品が多い中で、1千億円近い売り上げを上げることができるのは、ひとえに過去の社員も含めた全員の努力のたまものと感謝している。
さて、これからわが半生を述べていくが、どうしても最初は、私の父である創業者の大松幸栄のことから始めたいと思う。
父は1925(大正14)年、四国・愛媛県の中山町という奥深い山村で、7人兄弟の長男として生まれた。
この地域は農林業のほかにはさしたる産業もなく、あえて言うなら養蚕業があるくらいで、決して豊かとは言えない地域であった。
父は当然のように、農業を継ぐようにと言われて育ったが、この山村に埋没したくないと強く思っていた。
そんな父は、「農業に関する学校があれば行ってもよい」という祖父の言葉を頼りに、小学校を出ると松山市の農業中学へ進学し、やがて岐阜の農業専門学校(現在の岐阜大学農学部)へ進んだ。
しかし、どうしても農業に将来性を感じることができず、当時の日本の主力産業であった繊維産業に方針転換し、1年足らずで京都繊維専門学校(現在の京都工芸繊維大学)へ転学した。
在学中に関西の大手繊維会社への就職が決まっていたが、運命の糸が父を手繰り寄せたのか、岐阜の農業専門学校に在学していた時の寄宿先の娘であった母との出会いが、人生の分岐点となった。
卒業と同時に結婚したのだが、母は病弱であり、両親が娘を家から離すことを強く反対したため、父は岐阜へ戻らざるを得なくなった。このため、学校の教授の紹介で急きょ、先輩が社長をしている岐阜製染(現在の岐セン)へ入ることになった。
〈プロフィル〉
大松 利幸(おおまつ としゆき) 1970(昭和45)年、慶応義塾大学法学部を卒業し、三菱油化に入社。73(昭和48)年、岐阜プラスチック工業に入社し、専務、副社長を経て、88(昭和63)年、同社と全グループ会社の代表取締役社長に就任。2018(平成30)年から同社と全グループ会社の代表取締役会長。75歳。岐阜市出身。