都市再開発特集
笹島で開業から135年
名古屋駅の歩みと町並みの移り変わり
富国強兵の明治時代
当初は中山道ルート
新幹線、JR在来線、名鉄、近鉄、あおなみ線、地下鉄など多様な公共交通機関が集まり、さらに今後はリニア中央新幹線も加わり、国内でも類を見ない交通の要所となる名古屋駅。その歴史は、富国強兵に邁進する明治時代に始まった。
東京と大阪を結ぶ日本の大動脈、現在の東海道本線は、明治政府による新しい国づくりの一環として計画されたものだ。当時、東と西を結ぶ交通路といえば、海沿いの東海道と内陸の中山道。幹線鉄道のルートはこの二者択一で議論されていたが、どちらにするか未定のまま、流動の多い東京周辺の支線を先行して着工。1872(明治5)年、日本最初の鉄道として新橋~横浜間が開業した。一方、関西では1874(明治7)年に大阪~神戸間が仮開業。京都、大津あたりまで延伸された。
1883(明治16)年、保留になっていたルートの方針がついに固まる。中山道経由だった。東海道経由は海沿いになるため、戦時になれば敵国の艦隊から攻撃されやすいなどの理由で見送られた。資材は船で知多半島の武豊に運ばれ、そこから中山道のある加納(岐阜)方面へ陸送する手はずが取られた。資材運搬用に鉄道が敷設され、その過程で笹島に名護屋停車場(名古屋駅)が設営された。
名古屋は、中山道経由の計画に難色を示していた。名古屋駅はあくまで支線の駅。本線は通らない。近代都市化を推し進める名古屋にとって致命的だった。加えて中山道経由では難工事になることが懸念された。こうした声を受けて、計画は一転、東海道経由になった。すでに開通していた大府~大津間が幹線に組み込まれ、1889(明治22)年、全通(新橋~神戸)した。
線路で遮断されていた
東西往来を実現
関東と関西の往来が盛んになるにつれ、名古屋駅も活況を呈していく。1891(明治24)年に濃尾地震が発生し、駅舎が倒壊するも翌年に再建。やがて関西鉄道線(関西本線)が乗り入れ、中央本線が全通(名古屋~東京)した。
1934(昭和9)年、名古屋の人口が100万人を突破。その記念事業となる名古屋汎太平洋平和博覧会の開催に合わせ、名古屋駅は笹島から現在の場所へ移転した。地上6階建てで1階のコンコースは東西の通り抜けができるようになっており、それまで線路で遮断されていた人の往来を実現させた。1937(昭和12)年の完成当時、この自由通路構想は画期的であり、建物の規模の大きさといい、東洋一と称された。また駅前広場と栄と結ぶ通り(桜通)を拡幅するなど、名古屋駅を起点とするインフラ整備も進んだ。
航空産業の最大拠点でもあった名古屋は、太平洋戦争が始まると徹底的に爆撃され、大半が焦土と化した。戦災を受けたものの全焼に至らなかった名古屋駅は、戦後復興下、東海地区の陸の玄関として再び始動する。
1950(昭和25)年の朝鮮特需もあって、都市開発は急速に進み、地下でも展開。1957(昭和32)年には名古屋初の地下鉄(現・東山線)が開通し、それに伴って名古屋初の地下街(サンロード)も開業した。
駅ビルの規模
東洋一から世界一へ
1970(昭和45)年、名古屋の人口が200万人を突破。名古屋駅を利用する人は着実に増えていく。ただ、それ以上に自動車社会の発展が目覚ましく、東洋一とうたわれた名古屋駅はバブル期を迎える頃には老朽化が目立ち、相対的に地位低下を招くことになる。それを象徴するような出来事があった。「名古屋飛ばし」だ。東海道新幹線の新最速列車のぞみが1992(平成4)年から運行するにあたって、下り1番列車が名古屋駅を通過するダイヤが組まれた。地元の議員たちが超党派でダイヤ変更を求めるほどの"事件"だった。
一方で駅舎を4代目へとリニューアルする動きは進んでおり、1993(平成5)年に駅舎の解体を開始。1999(平成11)年に東海地区初の超高層ビルとなるJRセントラルタワーズが誕生した。高さ245㍍、延べ床面積41万6565平方㍍という規模は当時、駅ビルとして世界最大。ギネスにも登録された。名誉挽回のごとく、オフィスや商業施設が集積する一大エリアとして発展していく。さらに2006(平成18)年に高さ247㍍のミッドランドスクエア(オフィス棟)が完成するなど、超高層ビルが相次いで登場した。
現在、名古屋駅の西側ではリニア中央新幹線の新駅工事が進んでいる。ホームは地下約30㍍、最大幅60㍍になるという。名古屋駅の"深化"に終わりはない。